AI生成入門【stable diffusionってやつを使えるようになってみよう!】#1

 同級生オナニーがしたああああああああああああいいいいいいい!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 卒アルの写真を撮ってその画像をpcにぶち込んでよりでかい画面で中学の頃の同級生を見てオナニーしてる。

 

 だが、足りんな。ならばどうする。技術で潰す!

 

 おいこの記事を読んでるお前。昨今のエロ需要がどのように変化してるかしっておるか?性に関心を持ち始めた頃の我々はクラスメイトの女子でオナニーするのが普通であったが大人になった途端やれ顔がどうだの体型がどうだの。個人で良質な二次元やAV女優を堪能するには問題ない。しかしそれが正義でありと押し付けと金儲けのために作られた良質なエロばかりあげるのは有難迷惑この上ない。わざわざ美形ともそもそもかわいいとも呼べぬ記憶薄れゆく過去の同級生の女子の映像を思い浮かべてオナニーするなんてとエロ漫画のギャルのようにバカにするなど無粋だとは、思わんか!!!

 

 

 と、いうわけでして、頑張って使えるようにします。

 

 クラウド上であれこれやるものと、自分のpcにぶち込む奴の二択があるね。後者のほうがエロに向いてる。自分は個人用として、一人でシコシコするため、そもそもあかんエロなため、pcにぶち込む必要があるのだ。さて、必要なものは何か。

 

 バージョンなどを合わせなければ。それにモデルというものを取捨選択する必要がある。バグが起きたときのため、可能な限り広く使われているものを選ぶのが良い。自分は今回の需要のため、三次元のモデルを使用する。目的を見失ってはいけないのだ。なんでもかんでもAIであれば、高品質高画質であればよいとは限らぬ。時に低画質が陰茎をそそることすらある。

 

 時として、低画質は高画質に勝るのだ。情報化社会に生きる若者はこれを忘れてはならぬ。何故、我々は高品質を欲するかを理解してこそ、必要な時に必要最低限でのコストで済む場合がある。

 

 さて、お喋りはここまでだ。今日は情報収集をしたので、明日は実際にインストールなどなどをやり、バグへの対処をする日々になるだろう。では、おやすみ

進化する同級生オナニー【~AI技術との向き合い方~】

今日も、私は同級生のエロを考えていた。中学の頃の同級生である。

 

卒アルの写真を切り抜き写真を撮りそのデータをpcに持ち込み、より扱いやすくなったわけだが、AIを使用した服脱がせなるものの存在を知る。

 

 まあ、明らかに悪質なそれである。

 

 それについて調べていると、「stable diffusion」という単語を見た。

 

 モデルと呼ばれる「画像の集合」をインストールし、それらを処理するプログラムが書かれたファイル群をインストールし、それらを実行するための環境を用意し、ぽちぽちすることで自身のpcのみで「AI画像技術を用いたエロ技術の数々」を実現することが可能だ。

 

 AI処理。プログラミング。ふむふむ。

 

 あまりにも、私にとってこれらの学習は容易すぎる。

 

 あまりにも、簡単なんだ。簡単すぎるんだ。

 

 ああ、俺はこのときのために難しい、思考力を求められる勉強をしてきたのだろう。

 

 俺は、同級生エロを、追求する。

 

 同級生の卒アルの顔写真からその顔のエロ画像をたくさん量産する。そして、試行錯誤をする。いろんな服を着せよう。全裸だけがエロのすべてじゃない。

 

 もちろん、同級生のエロなわけなんだから満足するのは私一人だけだし、他人に見せるなんてしたくない。私だけのものだ。私だけが、あの同級生の中で最上位に成績が良くて理数系超特化型の私だけがこれをできる。

 

 当然だ。言われなくとも、”一人”で楽しむさ。だから問題ないわけだ....個人の範疇なわけだからな。

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 AVだの、エロ漫画だの、エロ絵だの.......

 

 どいつもこいつも、「エロ」を意識していることが容易く伝わる。

 

 見え見えの視線誘導、緩急の付け所、構成、どれも手に取るようにわかる。

 

 しまいには、またこのパターンかと飽きが来ては陰茎に意識が入らず、まるでインターネットに湧くお笑い評論家の如く醜き姿になり果てる。

 

 己を改善せねば、陰茎も前進せず。

 

 かの岡本孔明氏はこう語る。

 

 1961年。日本、チョメチョメ県ちんぽこ市にて誕生した日本のエロ第一人者である岡本孔明は、「同級生オナニー」という概念を最初に考えた人物である。

 

 人は、隣人に始まり、名人に憧れ、去りては隣人を愛す。

 

 この名言をよく聞くだろう。これは岡本孔明氏の発言であることはなぜかあまり知られていない。

 

 要するに、同級生オナニーというわけだ。

 

 しかしここで問題がある。同級生オナニーは、おかずのビデオも写真もない。はて、一体どうしたものか。それならAV漁りのほうがマシでは?

 

 ではここで、同級生オナニーは何故、同級生オナニーたりえるのかを熟考せよ。

 

 かわいいわけではない、美人というわけではない。昨今の人々は、自分に目を向けず他人に厳しくとやかく言う。その下劣な精神はオナニーすら疎かにする。

 

 我々は同級生オナニーでかわいいを前提とするか?いいやしないだろう。

 

 私は、顔で判断しない。陰茎立てばなんでも良き。

 

 そもそも、性欲の前にて顔面での判断など無意味。傲慢に等しき愚かな行為。ちんこの指す方角に従え。それを塗り替えるなどありえない。

 

 人前でも、ちんこの指し示す道を他人に言え。目に入る女すべてに、心でも頭でもなくちんこに従い、かわいいと素直に言いなされ。

 

 次に、年齢である。小学校から高校生、それと成人済みとでは顔が違う。

 

 大人というものは、どいつもこいつも似たような顔ばっかりしている。化粧という概念があるからである。

 

 それがないから、ちんちんがそそり立つのである。同級生オナニーとはすっぴんの小学生から高校生の女のエロさそのものを指す。

 

 美の追求?何を勘違い甚だしいことをしているのか。十代の女子をランダムに選べば勝手にそれはおかずになる。

 

 同級生オナニーに、別に思い出はいらぬ。あったほうが良いが、それは上質なAVかありきたりなAVかの違いである。

 

 本質に目を向けるとなれば、それすなわち「十代女」そのものである。そして、それ以上を要求しない。あることに越したことはないが。

 

 さて、話は簡単である。

 

 ブラウザを開け。そして「高校 女子 ○○部」と検索せよ。さすればおかずの宝庫なり。

 

 高校のところを中学に変えても良し。女子の部分を男子に変えても良し。

 

 テレビの未成年のスポーツの大会の放送は、地上波でのAV放送に匹敵するのである。

 

 規制も何も、心配することはない。未成年の女なぞ、いるだけでオナニーのおかずとして成り立つ。存在するだけでおかずとして成立するのだから、規制したければその存在を抹消、つまりは人口減少まっしぐらしかないのである。

絵の練習をし始めて170日程度が経過したけど

 不思議だ。いくら考えても分からない。どこがダメなのか。

 

 ピクシブの最新順で見ても、初心者や上手じゃない人のイラストを見ても魅力を感じるのだ。魅力のない絵は存在しない。この世で魅力のない絵は自分のものだけなのだ。

 

 見比べても、何が何だか分からないんだ。分からない。どこがダメなのかが分からないなんて、こんなの久しぶりだ。右も左も分からないなんて久しぶりだ。

 

 一つ一つの要素を分解して、おおよそ一致するのである。既存の「よいもの」には。しかし組み合わせたときにずれるのだろう。局所的な目利きと全体とのバランスを常に意識する。反復横跳びなわけだ。そう。物の味方の反復横跳びである。

 

 全体のバランスを見ようにも、パーツが出来上がらないとだめなのだ。パーツがなきゃ全体は完成してないので全体もくそもない。

 

 この理屈であってるか?つまり、車の部品としては初心者にしてはまあまずい箇所はとくにないし使えるけど、それぞれの部品がお互い合わないんだよね......という状況。これか?わからん。分からない

何が楽しい?

 お前たちは、何が楽しくて、そんなことをしているんだ?

 

 ゲームなんかしちゃって、何が楽しい?

 

 君はハイスコアを出すために常に工夫し、努力しているか?何のためにそんなことをしている?

 

 勉強なんかしちゃって、何が楽しい?

 

 どうせ役に立たない。役に立たない。役に立たない。何がしたい?毎日精神を削って、命を削って。

 

 運動とかして、何が楽しい?分からないんだ。

 

 何が楽しい?

 

 なぜ目指す?何を理由に、何を言い聞かせている?もう、無理なんだ。私は何がしたくて生きている?もう、生きている理由がないんだ。やりたいことがなければ、この時間とはなんなんだ。ただ存在している、大量の脳細胞。脳細胞なんていらないでしょう、こんなもの。

 

 こんなものなければ、ただの筋肉の塊。ただ、動くだけ。それが生物の構造。脳みそさえなければ。こんなものさえなければ。

何をやっても楽しくない

 何をやっても楽しくない。うつ病ってのは、そういう病気なのだ。正確には、そういう症状も含む。数ある症状のほんの一つに過ぎない。私は現在、この症状に悩まされている。

 

 何をやりたいのか。何かをやってみる。楽しくない。

 

 私は、できるようになりたいことがまだまだたくさんある。一ミリだけ、こんなふうになりたい、という理想が思い浮かぶ。私はそのために段階を踏んで努力をすることに慣れている。しかし、できなくなってしまった。

 

 できないんだ。できない。それは、うまい下手とかじゃなくて、まずスタートすることができない。絵を描こうとしてペンを持つことがまずできないのと同じだ。ペンの持ち方を知らないのではなく、指が曲がらないのだ。そういう意味で、できないのだ。

 

 私は、どうしたらいい。

 

 どうすればいいんだ。

 

 私は、何を望んでいるんだ。