大切なこと

 何を以てして間違っていると判断するのか。正しいと判断するのか。君は、敬虔なキリスト教徒に必死こいて神様なんていないと話をするか?しないだろう。しかし陰謀論者を説得することは試みるだろ?この違いは何なのか。

 

 人に迷惑をかけるか否かだろうか。私はそうは思わない。私が思うに、その人の中で一貫した論理的妥当性があることが正しさだと考えている。そして、前提として私は正しさこそが絶対であるという考えをしている。

 

 人それぞれ、思考の前提となる事実は異なる。何を信仰しているのか。何がいいもので何が悪いものなのか。そういった前提条件なるものの個数は人それぞれだ。

 

 それすらも多様である。問題はそのうえで、その上で、その上に積み重なっている推論によって紡がれた数多くの結論が、本当にその人にとって正しいと思えることなのかが重要なのだ。

 

 それさえ守っていれば、その人が何をしようがかまわん。なぜならその人にとって正しいことを正しく行い、正しく考えただけに過ぎないからだ。もしそれが原因で法律に触れるのなら、警察に任せればよい。もしそれが原因で私たちに害が出るのなら、抗議すればよい。

 

 そういった、他人への迷惑だのなんだのというのは二の次に考えることであり本質ではない。正しさ云々の前では邪魔だ。と言っても、人によっては前提として他人への迷惑云々を要求する人がいるだろう。それはその人の考え方だ。そして、前提となる事実や認識について他人に強要するのは考えの押し付けだと私は考えている。

 

 この世界に真実もくそもない。自然科学的な現象なら観察し実験すれば話は別だが、言葉遊びや人間が勝手に作ったしょうもない社会とかいうくそみたいな構造の中には真偽なんてない。もとが矛盾しているのだから何を言っても通用するからだ。

 

 屁理屈が悪いのではなく、屁理屈が通用してしまう論理構造を持った社会の存在自体がアウトなのである。

 

 真実、事実のみを考え、それ以外の不純物は後から考える。それが最も良い生き方であり生活の仕方だ。

 

 そしてそれを基準にいくつかの物事が決定する。そうすると、判断で迷うことがなくなる。そこでもし何か迷いが生じれば、それは自分自身についてすべてを考え直す必要があるか、あるいは心の問題である。

 

 とまあ考えたものの、結局心の病気になれば判断力が狂うってしまうんだ。書いた通り。

 

 人は合理性の逆の方向に進む生き物である。常に合理性から目を逸らし、真逆を歩き続けるのだ。合理性を唱える者は常に異端である。

 

 非合理の追求が人間性であり、それが人に感動などをもたらす。しかし合理性と非合理性は対象な概念ではないのだ。そのことは、とても悲しいことだ。