私はまだ海を見たことがない

 相変わらず、起きてから寝るまで家の中にいる。狭いアパート、たった一人。ニート生活だ。今年は何をしたのだろう。病院以外に外出はしただろうか。毎日、何も起こらず単調な日々。あっという間に過ぎ去る一年。

 

 今日はいい気分だ、なんて感じた日は三百六十五日あって一日もない。最高な日が存在しない。私はこの狭い世界の中で死んでいくのだろうか。

 

 だが気づけばもうすぐ誕生日。十八歳が終わり十九歳がやってくる。時は年々加速する。しかし私の体感時間は変わろうが心の加速度は0である。

 

 くだらぬことでも笑えば思い出になる。それすらなかったのだ。

 

 きっと近い未来、私は退屈に退屈を重ねたことを理由に大学へ進学する。しかしそのとき、私は楽しんでいるのだろうか。もう、友達なんかを作れる性格ではなくなってしまった。過ぎたことだ。どれも、過去のことである。

 

 宝物、大事なものってなんですか?

 

 私はパソコンが大事だと答える。なぜ大事なのでしょうか?そう問われる。私は、ピクシブでいっぱいイラストや二次創作小説を見れるからだ、いろんなことができるからだと答える。では、そのことを話してみてはいかがでしょうか?

 

 うーむ。私は沈黙するだろう。それは、他人に隠したいからか?もっと単純だ。私は自分一人で楽しみたいのだ。

 

 じゃあ、何か別の話でもしましょうか。例えば、ゲームとかしてるじゃないですか。それから、いろんな勉強をしてきたじゃないですか、それもこの一年間。そうそう。音楽、3D。絵の練習も最近してますよね?なんならつい二日前から何の脈略もなく韓国語なんか勉強し始めちゃって。あなたはいっぱい、話せることがあるでしょう?

 

 確かにそうだ。私は多くのことに挑んできた。だが、人に話せるほどのものではない。それに、そんなことを口にしたところでそれは対等な人間同士の会話ではなく、一方的な知識の押し付けしかできない。それは、会話とは言えないのではないのだろうか。私は、せめて人と関わるならまともに接したいのだ。

 

 一方的に喋るだけだと罪悪感が生じてしまう。

 

 つまるところ私は、友達を必要だと思わないし、欲しいとも思えない。私は人との関わりに何を求めるか。単なる信者か?私のことを褒める、興味を持ってくれる信者か?私は情報を吐き出し続ける教祖か?イエスキリストにでもなりたいのか?

 

 承認欲求から逃れられない現代人だ。私はこの問にノーと断言できない。人々はこの呪縛に囚われている。何も恥じることはない。

 

 私は、他人に情報を与えても別にいいが他人の情報には興味がない。それはつまり会話のキャッチボールすなわち情報のキャッチボールができないというわけだ。する気がないというわけだ。ただそれっぽく、キャッチして投げ返すことはできるっちゃできるか、それをやるよりも一人でいることを好む。

 

 私は、何がしたいのだろう。

 

 私は、どうすればいいんだ?

 

 

 私は、この狭い日本という国の外に出たことがない。

 

 海だ。

 

 海を見たことがない。

 

 私は、まだ一度も海を見ていない。十八年生きてきて、まだ見たことがない。

 

 知識は人並み以上にあるが、経験があまりにも足りていない。私は、辛かった。過去のことだが。貧しいから、親の気を遣って、○○に行きたいというわがままを言ったことがなかった。物心ついたときからだ。私は外の世界へ行きたいというわがままを言ったことがなかった。いつしか、私はそれを望むことを忘れた。

 

 それは、インドア派などという生易しい言葉で扱えるようになった。私は、家に金がなかったからインドア派にならざるをえなかったのだ。それは、私の本当の個性か。

 

 もし、私が外で遊ぶことを良きとする人間だったら?

 

 いいや、もしそんな素質があったとしたら?

 

 

 今現在、地球上のどこの土地に行っても、私たちが踏みしめている大地が続く限りすべて、すべてだ。すべての大地は、誰かの物なんだ。どこまで走っても、その大地は、私の物にはならない。

 

 私が自由にできる場所はこの地球上に存在しないのではないか。

 

 私は、地球上にいる限り一生心を開くことはないだろう。たかが環境が変わった程度じゃ、何も変わらないだろう。私が私を変えるのはいつだって内側からだ。

 

 それほど私は、環境というものを信頼していない。