感動ストーリーと呼ばれるものはなぜ感動というのか。そもそも、私自身は何に感動を覚えるのか、それすら実のところよくわからない。感情がないわけじゃない。むしろ私は感情マシマシだと思う。だが一体何が感動なのか分からない。
じゃあ、自分が感動ストーリーだと思うような話をいくつか考えてみよう。
なんらかの原因で会えない二人が再開とか?
なんらかの原因で二度と会えなくなるとか?
短期間しか関わってないけどその人にとっては大きな影響を与えた人でずっと忘れられないままその後生き続けるとか?
心中?
さて、一つずつ深掘りし、より一般化していこう。一般化は物事の理解を深める上で非常に重要なことである。
まず一つ目。
なんらかの原因で会えない二人が再開とか?
なんらかの原因とあるが、その「なんらかの原因」は果たして存在するのか。ここでの存在性について、重要なのは「感動」に十分値するか否かだ。
それは一体どういうものか。それは二人を物理的に引き裂くものであろう。なぜならこの後に「会えない二人」という単語があるからである。
さて、物理的に二人の人間あるいは知的生命体を離れ離れにさせる”事象”が存在するかどうかを考える。
惑星の周回運動はどうだろうか。これは最も基本的な万有引力の法則に従っている。
大陸の移動は、うーん。歩けば人は地球一周できるしなあ。
異空間への転移、とかかなあ。
あとは誘拐とか?誘拐といっても、目的がなければなあ。数十年も誘拐監禁となると、目的がちょっとね。感動の前に物語としてツッコミどころが出てしまう。性的な目的があるか。これなら納得だ。良さそうだ。
精々これくらいだろうか。
確かに、これは感動に値するだろう。すぐに再開してしまえば感動は薄れる。時間はたっぷりかけたほうがいい。
二つ目。
なんらかの原因で二度と会えなくなるとか。
これは一つ目に死亡を追加すればオッケー。あるいは、普通に死亡。
これは前振りというか積み重ねが多いほどいいね👍
できれば、死亡が最もいいだろうね。これは何に比重を置くかによって変わってくるだろう。
こんなものだろうか。二つ目は簡単だな。死亡が中心となる。
思うに、私は”理屈上解決可能な問題”でいちいち感情的にならないのだと思う。だから極端なものでないと心が動かない。これは重要な問題だ。物語の人物が合理的判断に欠けるやつだとわかってしまうと、共感できなくなる。
あまりにも可能性が低すぎる極端な事例でないと私の心は動かなくなってしまった。辛いよ。
三つ目。
短期間しか関わってないけどその人にとっては大きな影響を与えた人でずっと忘れられないままその後生き続けるやつ。
要するに、幼少期の思い出、きっかけを与えてくれる存在への感謝のようなものの存在だ。さて、これは難しい。
そもそも、人はなぜ生きるのかという問題に突き当たる。人の生き方に影響を与えるとは何か。分からない。
分からないな。
四つ目。
心中。
最高で最強。死ぬことにより永遠に愛を保存するのだ。感動とはこれだろう。本当の感動の涙は死によってもたらされる。うむ、良いね。
さて、以上の四つから私にとっての感動が分かった。
感動とは、相手を求める強い意思。
世間にある数多くの作品はなぜ私に感動をもたらさないのか。それは、強い意思に対して理性がなさすぎることだ。問題解決のために手段を問わないのであれば、頭脳も使うのが当然だと思うのだが。